ソ連軍 1943年型ルバシカ・アップデート (海外製・複製品)

第二次世界大戦において労農赤軍(ソ連軍)が使用した「1943年型軍服」です。

画像の物は海外製のレプリカです。

戦前の「1935年型軍服」の後継として採用されたものですが、戦争のさなかに階級章のデザインまで含めた大幅なデザインの変更を行った例は珍しいです。

 

 

1943年型ルバシカについては過去にもブログにて紹介していますが、今回はアップデート版として、各種徽章の追加や肩章の取り換えをしてあります。

 

 

 肩章は兵科色で縁取りされたウール製で、縫い付けたリボンの数で階級を示します。

画像の階級章は「伍長」に相当します。

 

 

肩章は着脱式で、肩側のループに通して首側のボタンで留めます。

 

 

ボタンはレプリカでは戦後型が再現されていましたが、大戦期実物ボタンと取り替えました。

 

 

労農赤軍では、最前線の兵士でもメダルや勲章を身に着けて戦っていたので、再現するのが目標でした。

画像は「戦闘功績記章」です。

 

 

こちらの徽章は左より「狙撃兵優秀章」「親衛部隊章」です。

 

 

1943年型ルバシカの着用状況です。

軍装趣味界隈では、詰襟の被服を指す「ルバシカ」の名称で扱われることが多いですが、ロシアでの実際の呼称としては1935年型同様、戦闘服を表す「ギムナスチョールカ」と呼ばれていました。

 

 

大祖国戦争中に見られた巻きゲートルとレンドリースで供与されたアメリカ製軍靴との組み合わせです。

ネット情報によれば、泥濘を移動する徒歩部隊には従来の合皮製長靴が支給され、自動車化部隊や直接戦闘に参加しない後方部隊の兵士にゲートルと短靴が支給されたそうです。

ただ、実際には戦場ではあらゆるものが不足しており、これらの使い分けも形骸化していたようで、場所を問わず両者混在しているように思われます。

 

 

帽子は「ピロトカ」と呼ばれる舟形帽です。

着用しているのは戦後製造の実物で、大祖国戦争当時の物と比べると、厳密には裁断や帽章等、細部に違いがあります。

 

 

こちらは「SSh-40 カースカ(ヘルメット)」を着用したところです。

「ノモンハン事件」の頃は「SSh-36」が使われていましたが、デザインをシンプルにして製造コストと防弾性能を向上させた「SSh-39」に更新されました。

「SSh-40」は内装を巾着型から3枚の合皮製布を使った形式に変更したモデルです。

3種類のカースカは大祖国戦争で使われた後、戦後は外形はそのままに顎紐を革製に変更した「SSh-60」へと改良されています。

 

 

足回りは、大祖国戦争中に長靴と併用された、巻きゲートルと編上靴の組み合わせです。

実物や複製品の入手の目途が付かなかった為、巻きゲートルは日本陸軍の巻脚絆、編上靴は戦後ソ連軍の熱地用短靴にて代用しております。

巻きゲートルは絨製(ウール織物)で、規定では黒く染められた物でしたが、オリーブグリーンやカーキ色の物も混在していました。

また、編上靴はロシア製の他、アメリカ製レンドリース品が大量に供与され、用いられていたようです。

 

 

武装した労農赤軍戦車随伴兵士の装備例です。

大戦中の1943年型ルバシカは、下士官兵用の場合、厳密には胸ポケットが無く、肩章留め以外のボタンは保護色で塗装されていました。

その後、曹長クラスに関しては1944年8月5日付け規定にて、士官用同等の胸ポケットが追加され、続く9月16日付け規定で全ての兵士の被服も対象となりました。(実際には、余剰の士官服の流用が大半だった模様)

 

 

いわゆる「タンクデサント」と呼ばれる戦術の為に、瞬間火力を重視して「PPSh-41 短機関銃」を装備しています。

着装例では、戦時中の記録写真で下士官兵クラスでも金色ボタンの使用例が見られる為、“イレギュラーなパターンの再現”、という理屈で考証設定しています。

戦後型被服とのコンバーチブルを考慮しての判断ですが、大戦型のみの使用ならば、自分でボタンをオリーブグリーンに塗装するのが妥当でしょう。

 

 

「PPSh-41」に用いられたドラムマガジンは大きく重くかさばるものの、装弾数は71発と多く、兵器としての信頼性も高い為、赤軍兵士に愛用されました。

 

 

個人的にタミヤのプラモデルでお馴染みの、ドラムマガジンを下から保持した射撃姿勢です。

 

 

タンクデサントでは戦車に跨乗して移動する事もあってか基本的に軽装が目立ちます。

 

 

1943年型ルバシカは、戦争の真っ最中に更新された物で、従来の1935年型と比べて階級章が襟章から肩章に変更された為、遠目に見るとシルエットの違いが目立ちます。

 

 

その為、同じく肩章を用いたドイツ軍服に印象が似ていたようで、前線部隊と補充部隊の間で誤認による同士討ちが発生したという話を聞いた事があります(真偽不明)

 

 

手榴弾を投擲しようとする赤軍兵士です。

大祖国戦争では、破片型手榴弾の「F-1」が広く用いられていました。

 

 

装備ベルトにベルトループを介して、ドラムマガジンポーチと手榴弾ポーチを身に着けています。

 

 

手榴弾ポーチはソ連製の実物中古品です。

代用素材としてしばしば見られる、灰色系の綿布で作られています。

 

 

手榴弾ポーチにはF-1型手榴弾を3個収納できます。

戦後は2本収納の新デザインの物が主流となりました。

 

 

PPSh-41の初弾装填の様子です。

ドラムマガジンポーチも実物中古品を携行しています。

内部のタグから、ソ連製と思われます。

 

 

マガジンポーチは1個携行しています。

戦前のマニュアルによれば、短機関銃装備にはドラムマガジンポーチ3個が装備される規定だったようですが、戦時中はほとんど1個持たされるのがせいぜいのようで、記録映像でも軽装の兵士が目につきます。

 

 

「ルバシカ」と「ペーペーシャー(PPSh-41の兵士間の愛称)」の組み合わせは労農赤軍を印象付けるスタイルで、特にドラムマガジン付ペーペーシャーは独ソ戦でドイツ軍に「バラライカ」とあだ名され、更には1945年の満州侵攻でも対面した日本軍から「マンドリン」と呼ばれました。

どちらも楽器に由来するあだ名なのが面白いです。

 

 

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